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■略歴■
フォトグラファー & 動画クリエイター
Legame Studio 代表
小野 浩輝(おの ひろき)
1995年生まれ。福岡県福岡市出身。福岡県立博多工業高等学校画像工学科卒業。
3歳にしてパソコンを玩具とし、高校2年にしてカメラと出会う。
高校卒業後、九州テレ・コミュニケーションズ株式会社をへて、LINE Fukuoka株式会社に入社しチームリーダーのひとりとして “LINE Pay” の事業立ち上げに参画。株式会社アッカ・インターナショナルにてアパレル・カメラマンとして研鑽を積んだのち、GMOペパボ株式会社に移籍し、サラリーマン生活と並行して写真家活動をつづける。2020年には動画クリエイターとしてもデビューし、2022年に “Legame Studio” を設立。2023年に独立を果たして現在に至る。
芸術性の高い撮影・編集スキルと、誰とでも打ち解けるコミュニケーション能力の高さ、お客様の人柄や感情を察して最適なご提案をする共感力と提案力を強みとしている。
■経歴■
>■1995年 福岡県福岡市にて誕生■
~”演じること”が大好きだった幼少期と小学生時代~
1995年、”Windows 95″ が発売されたその年に、私は生まれました。
当時の世界は、”IT革命” の真っただ中。パソコンが一般家庭に普及しはじめ、インターネットや携帯電話が登場し、PlayStation、セガサターン、ニンテンドー64・・・といった新世代のゲーム機が熾烈な市場競争をくり広げるなど、とても活気のある時代でした。
そんな時代に生まれた私は、3歳にしてパソコンを与えられました。物心がついてからは、ダイソーの格安ゲームソフトをお小遣いで買ってプレイするのが楽しみでした。
3人兄弟の末っ子として生まれ、姉や兄とはやや年が離れていたこともあり、私は、周囲の愛情を一身に受けて育ちました。
両親からは、しつけや勉強について口やかましく言われたことがありません。たった一つだけ、
「自分がされて嫌なことは、
人にもしてはいけません」
という黄金ルールを守っていれば、何をしても自由だったのです。
家族の愛情をたっぷりと受け、自由に育てられた私は、幼少期から現在に至るまで、新しいことに挑戦したり場を盛り上げたりするのが大好きで、
「自分にしかできないことに挑戦をしたい」
「自分の世界を表現して多くの人々に驚きや楽しさを提供したい」
という根源的願望を抱えているように思います。
…
私の表現者としての原点は、私が4歳だったころの体験にあります。
それは、大人になった今でも鮮明に思い出せる情景です。
私が通っていたミッション系の幼稚園では、クリスマスの催しもので、新約聖書に描かれているイエス・キリストの降誕の場面を皆で演じることになりました。
劇中には、3人の占星術の博士たちが、生まれたばかりのイエスに対面する場面があります。私は、この3人の占星術師のうちの1人を演じたのです。
「救い主としてお生まれになった方は、どこにおられますか?わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです。」
(マタイによる福音書、第2章第2節/意訳)
このとき私は、日常では着ることのない華やかな衣装を身にまとい、スポットライトを浴び、大勢の視線を集めながらセリフを発することに高揚感を抱いたのです。
この体験以来、子供のころに私が熱中したのは、
“演じること”
でした。
小学校に進学してからは、学校行事では学芸会がいちばんの楽しみであり、6年生の頃には応援団長に立候補して体育祭で演舞を披露したりもしました。
一方で、演じることの限界も感じていました。
演劇にせよ、応援団にせよ、大勢の人たちとチームを組み、衣装を用意し、場所を確保しなくてはいけませんし、年に1、2回しか発表の機会がありません。私には、それが歯がゆく感じられたのです。
「何ものにも縛られず、自分の世界を思いっきり表現する方法はないのだろうか・・・。」
大がかりな準備をせずとも、個人の力でいつでも自由に表現をする方法はないだろうかと考え始めたのです。
こうして私は、理想の表現手段を追い求めながら小学校時代と中学校時代を過ごしていきました。
やがて、転機が訪れます。
中学3年生にもなると、卒業後の進路を決めなくてはなりません。親から勉強しろと言われたことがなく、学歴や偏差値に全く関心がなかった私は、
「高校?そんなん、お兄ちゃんと同じでいいやろ」
という軽いノリで、兄の母校である福岡県立博多工業高等学校に願書を出しました。
このとき私は、人生最良の決断をしていたのです。
>■2010年4月 福岡県立博多工業高等学校に入学■
~カメラとの出会いをはたす~
博多工業高校には無事に合格し、進学することになりました。同校はとてもユニークな学校で、全国的にも珍しく、芸術系の学科を設置しています。
この高校時代、私は人生を決定づける出会いをします。
私が所属した画像工学科では、写真の撮影や動画の編集、そして印刷の技術まで教えていました。こうした授業を通じて、本格的なカメラの操作をはじめて体験したのです。
このとき私は、探し物をようやく見つけたような心境になりました。
「カメラこそ、僕が求めていた
表現手段じゃないか。」
カメラさえあれば、シャッターを押すだけで風景を写し出すことができます。それでいて、レンズの種類を変えたり、アングルや構図、光の当て方などを工夫することにより、表現には無限の可能性が生まれるのです。さらに、デジタル技術を活用すれば編集して自在に加工することさえできます。
しだいに私は、写真撮影に熱中するようになっていきました。そして、ある出来事がきっかけで、カメラのもつ大きな可能性を実感させられることになったのです。
それは、高校2年の2学期のこと。
私のクラスでは、授業の一環として生徒が各々の写真作品を発表することになっていました。ちょうど私は応援団に参加していましたから、その練習風景などを写真におさめ、スライドショーとして編集して放映したのです。
発表の当日、写真が流れ始めたときのことは、今でもよく憶えています。
放映が始まった瞬間、クラスメイトたちの表情が変わったのです。
皆が写真に釘付けになっています。そして、写真の数々が映し出されるにつれ、ときには目を輝かせ、ときには笑い声を上げたり、拍手をしたりしています。
わずか2、3分の放映の間、教室には明らかにいつもとは違う雰囲気が漂っていたのでした。
そこで、私の心には一つの疑問が浮かびました。
「皆は、どうしてこんなに写真に見入っているんだろう。僕の写真の出来がよかったからなのか?それとも、体育祭の思い出がそうさせているのか?」
・・・今思えば、おそらく後者が理由だったのでしょう。当時の私は、カメラを学び始めてから日も浅く、技術も拙いものだったに違いありませんから。
しかし、私は写真という創作物がある種の魔法のような魅力を持っていることに気付かされました。写真には、人の記憶を呼びさまして感情を動かしたり、情景を共有して共感をうながしたりする不思議な力があることを発見したのです。
「もっと美しい写真を撮れないだろうか。そして、写真に宿る思い出だけでなく、写真そのものの美しさによって、大勢の人たちを感動させられないだろうか。」
そう考えた私は、やがて、カメラの技術を深く学べく、専門学校への進学を望むようになりました。
――しかし。
その望みは、断念せざるを得なくなります。
理由は家庭の事情です。
実は、私の両親は私が高校2年生のころに離婚しています。
両親が離婚に至った経緯はここではお伝えできませんが、高校3年生の頃には、私を高校に通わせるために、母はパートで働きながら家事もこなしているという状況でした。
母の苦労を間近で見ていた私には、専門学校の学費を払ってもらうという選択肢はどうしてもとれなかったのです。
>■2013年4月 九州テレ・コミュニケーションズ株式会社に入社■
~ITスキルを活かし、接客の基礎を学ぶ~
専門学校への道を断念した私は、高校卒業後、九州テレ・コミュニケーションズ株式会社の福岡支店に就職しました。
同社は、長崎県に本社を置き、ケーブルテレビやインターネット関連の事業を営んでいます。
3歳のころからパソコンを扱い、高校の授業で情報処理の基礎を学んでいたこともあり、IT系の会社ならばスキルを活かせると思ったのです。
業務内容としては、電話や店頭での応対、お客様訪問といった形で回線設置やアフターサポートを行う、というものでした。なかでも、アフターサポートがメイン業務であり、回線の不具合などのトラブルの応対が多かったです。
業務の性質上、たいそうお怒りのお客様への応対も珍しくありません。そこでは、単に問題を解決するだけでなく、共感や誠意を示してお客様の感情を和らげることが求められました。
この点は私の得意分野だったらしく、怒り心頭だったお客様が、応対後にはすっかり笑顔になって帰られたり、2度目の応対時には直々のご指名をいただいたり、ということもありました。
アフターサポート業務を通じて接客に必要なコミュニケーション能力、特に、“共感力” が非常に鍛えられたと感じます。
はじめての会社勤めということで不安もありましたが、幸いなことに、人間関係に恵まれ働きやすい職場でした。
>■2014年5月 LINE Fukuoka株式会社に入社■
~チームリーダーのひとりとして、LINE Payの立ち上げに参画~
前職に不満があったわけではありませんが、あるとき、LINE Fukuoka株式会社が中途採用を行っていると知り、応募することにしました。
同社は、今や私たちの生活に欠かせないメッセージアプリ “LINE” を運営しているLINE株式会社の福岡支社です。社会に広く普及しているLINEがどのように運営されているのか、私には心惹かれるものがあったのです。
採用倍率は約100倍だったそうですが、なぜかトントン拍子で最終面接まで進み、内定が決まりました。
私の入社時、巷では電子決済が普及し始めており、LINEにも決済機能を実装させるべく、社内チームが結成されていました。福岡支社には20人規模のチームがあり、東京本社と連携しながらプロジェクトを進めていたのです。
入社直後にヒラのメンバーとして業務に従事した後、私はこのプロジェクト・チームのチームリーダーのひとりとしてのポジションを与えられました。はじめて部下の統率や教育を任されることになったのです。
チームリーダーを任された当初、私は、とにかく仕事のやり方を部下や後輩に教え自分のコピーを作ることが大事だと思いました。しかし、当時の尊敬する上司がそれでは不十分なことを教えてくれたのです。
「仕事を教えて自分のコピーを作るだけでは不十分だよ。部下や後輩は自分以上に育てる、という心構えでいるべきだ。」
そもそも各人の個性も強みも異なるのだから、自分のコピーを作ることは困難だと言うのです。
確かに、部下や後輩を観察すると――。
コツコツとした事務作業を得意とする人もいれば、奇抜な発想を得意とする人もいます。口頭だけで仕事を覚えられる人もいれば、マニュアルがなければ覚えにくい人もいます。
そこで私は、部下や後輩の特徴を見抜いてそれぞれに適したコミュニケーションをとり、強みを発揮できそうな仕事を振り分けることを心掛けました。
コミュニケーションに関しては、LINE社には面談の機会が日常業務に組み込まれており、各人が抱える問題点が把握しやすかったです。こうした土台もあり、部下や後輩とは円滑にコミュニケーションをとることができました。
なお、LINE Payは、2014年5月に法人が立ち上がり、同年12月にはサービスを開始することができました。その後の決済取扱額は1兆5千億円を超え、ユーザー数は4,200万人にもなっています。
>■2017年7月 LINE Fukuoka株式会社を退社■
~カメラマンへの道を再び目指す~
LINEでの会社員生活は、とても充実していました。上司にも仲間にも恵まれましたし、挑戦することが大好きな私にとって新規事業の立ち上げに関わることは、とてもやり甲斐を感じていたのです。
そのままLINE社に勤め続ければ、それなりに出世ができ、大企業の庇護のもとで安泰な人生を送れていたかも知れません。
しかし、会社員生活が充実するほど私はフラストレーションを感じるようになっていきました。
カメラマンへの夢が、頭の中をよぎるようになったのです。モヤモヤとした霧のような葛藤が立ち込めはじめ、それはしだいに耐え難いものへと育っていきました。
「家庭の事情で断念したカメラマンへの道・・・。死を迎える瞬間、後悔することはないだろうか?組織の歯車に甘んじて挑戦を放棄するのは、”逃げ” に他ならないのではないか?」
やがて私は、LINE Fukuokaを退社する決断をします。背中を押したのは、周囲の人々の私への評価でした。
「小野くんってさ、サラリーマンより起業家タイプだよね。」
「君は、自分でビジネスをやる方が向いているよ。」
こうした第三者からの私への評価が私自身の自己評価と一致していたのです。ならば、それは真実なのでしょう。
再就職先が決まらぬまま、私は辞表を出しました。
突然の退職に周囲の人々は驚いていました。引きとめる声もありましたが、私の決意は揺らぎませんでした。
>■2017年9月 株式会社アッカ・インターナショナルに入社■
~アパレル・カメラマンとして研鑽を積む~
行く当てもなくLINE社を退職し、私は無職となりました。すぐに求職活動を開始しましたが、次の職場ではカメラに関わる仕事をしたい、という思いがありました。
そこで着目したのが、“アパレル・カメラマン” という職業です。これは、簡単にいうとファッション・モデルを撮影するお仕事です。お給料をもらいながら写真を撮らせてもらえるわけですから、当時の私には夢のような仕事だったのです。
さらに、どうせ新しい道を踏み出すのなら、思いきって地元・福岡を離れてみよう、とも考えました。求職活動は、兄が横浜に住んでいたご縁もあり関東地方を中心に行いました。
やがて、東京都港区に本社を置く、株式会社アッカ・インターナショナルから内定をいただき、その川崎オフィスに勤務することになりました。
同社は、アパレル会社を取引先としており、在庫管理や写真撮影などの庶務を代行する業務を行っています。
自宅から会社へは距離があったため、毎朝6時に家を出て、夜の11時に帰宅する・・・というハードな生活が始まりました。睡眠時間は4時間あればいいほう、です。
しかしそこには、経験したことのない華々しい世界が広がっていました。
撮影の対象はプロのモデルさんばかりですから、男女ともに容姿端麗なだけでなく、とてつもなくスタイルがよい人たちばかりです。
そして、プロのプロたる所以は外見だけではありません。彼ら・彼女らは、自分を美しくみせるポーズやアングルを知り抜いており、卓越した “撮られる技術” を持っているのです。
後に気付いたのですが、モデルや女優ならずとも、女性ならば大なり小なりアングルへのこだわりがあるものです。アングルを工夫することで、容姿の欠点を目立たなくさせ、美しい部分を最大限に強調させることができます。
現在の私は、女性が撮ってほしいアングルや撮られたくないアングルを瞬時に見抜くことができますが、このスキルは、当時の撮影経験を通じて培ったものです。
…
アパレル・カメラマンとしての業務は、刺激に満ちたものでした。
仕事はとても充実したものでしたが、それと同時に不満をも感じるようになりました。
アパレル・カメラマンは、準備されたものを撮るにすぎないのです。美しいスタジオや衣装は事前に準備されたもににすぎず、撮影対象となるモデルさんたちは、前述の通り、”撮られるプロ” です。極論ですが、”シャッターさえ押せば誰でも綺麗な写真が撮れてしまう” といえるほど、創作の幅が狭いのです。
「もっと色んなものを撮ってみたい。もっと表現の幅を広げたい。カメラマンとして大成したいなら、アパレル以外の分野でも活動するべきだ。」
そのように考えた私は、次の段階に進むべく、福岡に戻る決意します。
>■2019年11月 GMOペパボ株式会社に入社■
~会社勤めのかたわら写真活動を継続~
アッカ・インターナショナルを辞した私は、地元・福岡にてGMOペパボ株式会社に入社しました。GMOグループは、”ロリポップ”のサーバー運営から、オンライン証券事業まで、幅広いITサービスを運営する事業体です。
私は、HP・ブログ編集システム “Word Press”や、サーバーやドメインに関するカスタマーサポートを担当し、それと同時に、リーダーとして部下のマネジメントや業務効率化などに取り組みました。
今だから言えますが、GMOペパボに入社した動機のうち最大のものは、同社で副業が容認されていたことでした。
独立の目標があるとはいえ、カメラマンの世界も厳しいものです。言葉は悪いですが、フリーのカメラマンは掃いて捨てるほどおり、カメラの腕だけで暮らしていけるのが一部だけであることは、私も重々承知していました。
そこで、副業としてカメラマンの活動しながら、自分の実力を研いてみようと思ったのです。
幸いなことに、前職とは異なり、GMOでの会社員生活には比較的時間に余裕がありました。
当時の私は、会社員やカメラマンとしての活動だけでなく、YouTubeでのゲーム実況や動画投稿なども行っていました。YouTubeでは3つのチャンネルを運営しましたが、どれも好評で、チャンネル登録者数は合計で1万4千人を超えました。
そんな日々を送っている最中、私の人生を変える出来事がありました。
>■2020年9月 動画クリエイターとしてデビュー■
~コロナ禍にて、運命を変えた一通のDM~
「YouTubeチャンネルを始めようと思います!」
そんな投稿をTwitter(現 “X”)で見かけたのは、日本中がコロナ禍にあった2020年9月頃のことです。
投稿主は、岐阜県で居酒屋を営むN社長です。N社長とはオンライン・ゲームを通じて知り合い、懇意にさせていただいていたのです。
そんなN社長ですが、コロナ禍が会社経営に影響を与えていたこともあり、様々な新しい試みを打ち出されていました。その一環として、会社名義のYouTubeチャンネルの運用を始めていたのです。
「僕にも何かできないかな?」と思った私は、軽い気持ちでDMを送りました。
「Nさん!よかったら僕が編集をやりましょうか?」
「おっ、助かるよ!じゃあ頼むわー」
高校で動画編集を習得し、すでにYouTubeでチャンネル運営をしていた私にとって動画編集はお得意の作業でした。素材の動画を受け取り、軽く編集を済ませてN社長にシェアしたところ、想定外の反応が返ってきました。
「おぉ、むっちゃいいやん!」
「間のとり方が絶妙だね。小野くん、センスあるよ!」
N社長は、いたく喜んでくれたのです。
これが、私の動画クリエイターとしてのデビューでした。
N社長は、私の技術を高く評価して下さり、その後も有償で編集のご依頼を下さるようになりました。それだけではなく、岐阜県の中小企業様を中心に次々とお仕事のご紹介を下さるようになったのです。
動画のご依頼には、写真撮影にもYouTubeチャンネルの運営にもない楽しさがありました。
ご依頼主様は経営者の方ばかりで、撮影対象は企業様です。編集作業を通じて様々な人々とコミュニケーションをとる過程で、未知の世界や、これまでにない視点に触れることができます。
仕事を通じて自分の見識が広がるような感覚があり、そこになんともいえない新鮮味があったのです。
>■2023年6月 GMOパペボを退社■
~独立カメラマン、アーティストとして歩み始める~
こうして、N社長とのご縁もあり、動画が収益源に加わったことで、2023年を迎えたころには独立が視野に入ってきました。
――そろそろ潮時だろう。
そう思った私は、2023年6月にGMOペパボを退社し、独立することとなりました。
子どものころから表現することが大好きで、理想の表現手段を追い求めていました。高校2年生にしてカメラに出会い、カメラを学ぶことを志し、一度は夢を断念しましたが、様々なご縁があり、こうしてカメラマンとして生計を立てていくことになったのです。
独立の事業主となったわけですから、会社員としての安定性はありませんし、大変なこともあります。
しかし、不安を感じることはほとんどありません。自分の好きなことをやりながら創造性を発揮し、お客様から感謝されながら仕事をしていけるわけですから、やはり充実感があるのです。組織に縛られずに活動ができますので、絶大なワクワク感もあります。
カメラマンとしての屋号は、
“Legame Studio”
としました。
“Legame” には、イタリア語で「結ぶもの」「糸」「ひも」「絆」といった意味があります。
子供の頃から友人に恵まれ、学校では多くの先生方のお世話になりました。そして、高校卒業後は4つの職場を経験し、そこでも多くのお客様、上司、先輩、同僚、部下、後輩たちと関わりました。
このメッセージでは割愛しておりますが、若輩の身ながら本当に多くの出会いがあり、そのおかげで今の私があります。
とりわけ、N社長には心から感謝しています。動画が収益源に加わったことで独立への道が一気に開けたのは間違いありませんから。
今日までやってこられたのも、N社長をはじめ多くの人々のご縁に支えられたおかげです。
「出会ってきた多くの人々への感謝の気持ちを忘れないようにしたい。そして、今後もカメラを通じて絆や思い出を繋いでいきたい。」
そんな思いを込めて、”Legame” の一語を屋号に含めました。
■私の強みとポリシー■
意外に思われるでしょうが、カメラマンには撮影や編集の技術だけでなく、コミュニケーション能力までもが求められます。カメラの技術だけでは一人前とは言えないのがカメラマンなのです。
・あるときには、お客様のご要望を最大限聴きとり、またあるときには、お客様が自覚されていないニーズをも汲みとって新しいご提案をすること
・あるときには、気さくに話しかけ楽しいムードを演出し、またあるときには、空気のように存在感を消してイベントを妨げないこと
・・・などなど、撮影や編集の技術以外にも求められることが沢山あるのです。
この点については、手前味噌ながら、もともと私は人と接することが好きですし、誰とでも人見知りせずに打ち解けられる性格です。また、カメラマンとしての対人スキルは九州テレ・コミュニケーションズでのカスタマーサポートやアッカ・インターナショナルでの撮影経験で培われたと自負しております。
やはり、カメラマンは私の天職なのでしょう。
写真家・動画クリエイターとしては、次のようなことを心がけています。
・記念撮影とアートの融合
記念撮影でありながら芸術性の高い作品を創り出せることが、私の最大の強みです。常に心がけているのは、お客様の人生のワンシーンをあたかも名画のように表現することです。こだわりの機材と独自の編集技術でスマートフォンによる自撮りでは決して不可能な作品を生みだします。
・野外撮影へのこだわり
写真館での撮影も、それはそれでよいものです。入念に準備されたスタジオやセットで計算された照明を用いれば、演出された美しさが宿ります。しかし、お客様の人生のワンシーンをありのままに保存したいという思いから、現在の私はスタジオを構えておらず、屋外での撮影にこだわっています。
・撮影対象の魅力を引き出す
人物であれ、動物であれ、無機物であれ、最も美しく見えるアングルや一瞬のタイミングを逃さないことを強みとしております。全ての被写体を、最高に美しい状態の写真や動画として保管します。
・イベントを200%楽しんでいただく
カメラマンが気になってお客様の意識に違和感が生じるようでは活き活きとした作品は残せません。空気のように存在感を消し、イベントの楽しみを決して妨げないことも私の強みです。”知らないうちに写真を撮られている” という状態を作り出すことができます。
・撮影そのものの楽しみを体験していただく
また、”撮影そのものの楽しみ” も味わっていただきたいと考えております。人生のワンシーンから作品が生み出されていく過程は、とても楽しいものなのです。お客様にこの楽しみを体験していただきたいですし、私自身も、創作の過程を楽しむを心がけております。
■私には夢があります■
この世には、魅力的なものが溢れています。
美しい風景、素晴らしい商品、
崇高な理念に燃える企業、
今をひたむきに生きる人々、
人生の節目となる式典、
時間感覚を失うほど
楽しいイベントのシーン――
写真や動画には、そうしたものたちの魅力を保存し、人々の記憶を呼びさまし、思い出を共有させるという、かけがえのない役割があります。カメラとは、人々の記憶や絆をつなぐ “糸”(Legame)のようなものなのです。
今、私にはカメラを通じて叶えたい
3つの夢があります。
・1つめの夢は、何千・何万ものお客様の “驚きの笑顔” を見ることです。
不思議なことですが、写真にせよ動画にせよ、美しい作品を目にした瞬間、人は同じ反応をします。
はじめに「あっ!」と驚き、
次の瞬間に笑顔になるのです。
この表情こそが作品の成功の証であり、表現者としての最高の冥利なのです。今後のクリエイターとしての活動を通じて、人々のこうした驚きの笑顔をたくさん見ていきたいのです。
・2つめの夢は、お世話になった人々への恩返しをすることです。
若輩の身ながら、これまでに多くの人たちとのご縁をいただいてまいりました。これからも、数えきれないほどの出会いがあることでしょう。
クリエイターとしての活動を通じて周囲の人々に価値を提供し、人生を豊かにする存在でありたいと思います。その中で、お世話になった人々への恩返しもしていきたいのです。
そのためには、技術面でも人格面でも、常に精進を怠らないようにしたいものです。
・3つめの夢は、母への親孝行をすることです。
前述の通り、私の両親は私が高校2年生のころに離婚しています。
当時は経済的に余裕がなく、子供の私から見ても母は大変な苦労をしていました。ここには書けないこともありましたし、母には、私が知らない苦労も色々とあったに違いありません。
私はもともと物欲の薄い性格であり、自分が贅沢をしたいという思いは、ほとんどありません。しかし、独立の身となったからにはある程度の経済的な豊かさは手にしたいと考えています。
それは、母にはゆとりのある生活を送ってもらい、ずっと幸せでいて欲しいからです。
これから、母があっと驚くような “すごい親孝行” をたくさんしていきたいと思います。
これが私の最大の夢であり、
人生の原点でもあります。
小野 浩輝